大槻啓之インタビュー(後)by 小野島大

 [プライベート・スタジオの充実]

 90年代に入るとギタリストとしての仕事は減り、自宅にこもっての作曲/編曲のための宅録作業の日々が続く。稼いだ印税を惜しみなく注ぎ込んで自宅に本格的な録音環境を作り、AKAIの12チャンネルマルチレコーダーを2台シンクロさせて24トラックのデジタル録音が可能なシステムを構築した。そこで大槻が1人で、ある程度まで作り込んだデモを作り、スタジオにマルチのテープを持ち込む。音源を差し替えることもあったが、大槻の自宅スタジオで作った音がそのまま最終音源として使われることも多かった。
プロトゥールズなどコンピューターによるDAW(Digital Audio Workstation)環境が普及し、今やアマチュアであっても個人でプロ水準の録音環境を整えていることは珍しくないが、90年代初頭という時期を考えれば異様に早い(プロトゥールズがプロの間で普及し始めたのが1997年ぐらい)。そうした宅録環境の充実はレコーディング予算の削減に繋がる。それなりのギャラはもらってはいたものの、通常の商業スタジオで作業するよりもはるかに安いバジェットで済んだはずだと大槻はいう。安く済むというだけでなく、一人でやっているとクライアントの細かい要求にもこまめに迅速に対応できるというメリットもある。

 とはいえ、個人で持つにはあまりに高額な機材と環境を整えた理由はなんだろうか。「自分でできることはつい手を出したくなる。餅は餅屋という発想にはならなかった」のが主な理由だが、日本人のエンジニアで、なかなかこれという人材に巡り会えなかったという事情もある。

 「ミックスを頼んでも、どうも思うようにいかない。だったら自分でやった方がいい。それでもプロ用のスタジオと同じ機材を揃えないと、同じレベルの音にはならない。安い機材をいくらいじくり回したところで、プロの現場の音にはならないんだよね。本番に通用するような音作りやミックスをやろうとすると、プロの現場と同じものをいじらないと意味がない。なのでスタジオ・クオリティの機材を買い揃えることになったわけ」

 大槻は楽器演奏も作曲も編曲も音源制作も、そしてエンジニアリングも、誰の教えも受けず、すべて独学で学んできた。それだけにセオリーを叩き込まれているプロのエンジニアにはなかなかできない、常識に囚われない自由で大胆な発想ができた。というより、彼が理想とするロック・サウンドをとことん達成しようとしたら、すべて自分でやるしかなくなった、ということかもしれない。大槻の発想や理想は、日本の島国サイズを超えていたということだ。

 そうした時期の大槻の集大成であり代表作として挙げられるのが浜田麻里の『marigold』(2002)だ。大槻の自宅スタジオで歌入れ以外のすべての作業がおこなわれ、浜田のヴォーカル以外のすべての楽器、エンジニアまで大槻が手がけた。

 「あの頃は極端に言うと浜田麻里が自分の音楽の代弁者みたいに思ってたね。自分のやりたいことを彼女を通じてやっているような意識もあった」

 大槻と浜田が喧々囂々のディスカッションを繰り返し完成させた『marigold』は、2000年代以降の浜田のロック回帰のきっかけともなり、現在の浜田の好調な活動の基礎を築いたとも言える傑作だ。音楽的にはマニック・ストリート・プリーチャーズにハマっていた時期で、その影響が大きいとは大槻の弁である。

 [ギター離れ、そしてギター回帰]

 そうした宅録作業が仕事の中心となって、作曲や編曲もキーボードを使うことが多くなり、サポート・ミュージシャンとしての仕事もしなくなって、ギターを弾く機会が極端に減ってしまったのも90年代以降だった。あの片時もギターを手放さないギター小僧にもそんな時期があったのかと驚かされるが、次々と出てくる新しい機材(主に録音系)に関心を奪われ、昔からあまり変わり映えのしないギターがオールドファッションなものに思えてしまったらしい。

 だがインターネットの時代になり、あらゆるヴィンテージ楽器がネット上で手軽に手に入るようになって、再びギターへの熱がぶり返したのが2000年代以降だった。ヴィンテージ・ギターを売っては買い、という生活は今も続いているようだ。

「世の中の動きもそうだと思うんだけど、一時期ロックから遠ざかっていたリアルタイム世代の人たちが、ちょうど2000年代に入ったぐらいから生活にゆとりが出てきて、昔好きだったレコードを聞き出したりして、一時期彼方に追いやられていたクラシック・ロック的なものが再評価されるようになってきた。たぶんヴィンテージ・ギターのブームもそういう動きとリンクしていると思う」

 ギター熱が再燃し、長らく休んでいたライヴにも復帰、曲作りにもギターを主に使うようになった。

「80年代から90年代ぐらいは世の中の流れもそうだったけど、わりと音楽的に技巧に走る時期だったのね。ひねりたがる、凝りたがる時期もあったけど、それ以降は徐々にシンプルな方向に戻ってきた。それとギターで曲を作るようになったことは多少は関係しているかもしれない」

[初のソロ・アルバム制作、そして現在〜未来]

 そして2011年には東北・東日本大震災で音楽の無力さを感じ、同時に「自身のキャリアを振り返った時、本当の意味での自分の作品が存在していないことに愕然として、ソロアルバムを作ることを決意」して、55歳にして初ソロ・アルバム『play it loud…!』を制作。

 2000年代の一時期には、アイドル向けの楽曲コンペに参加するなど、メインストリームのJ-POPとの接点を探った時期もあったというが、「自分に向いてるわけでもないのに無理して好きでもないことをやる必要はない」と思い至り、以降はマイペースでの活動になっている。Fabtracks(http://fabtracks.com/)名義でのジェフ・ベックやヴェンチャーズ等の音源制作や、震災の被災地支援に端を発した『Guitar☆Man』(http://gm.fanmo.jp/)プロジェクトへの積極的参加など、自分の趣味を生かせる活動を無理のない範囲で行っている。もちろん浜田麻里のアルバムへの参加等は相変わらず行っているが、特に自分の趣味として仕事を離れ楽しくできるのがFabtracksだという。これはいわば、高校生時代にやっていたひとり多重録音遊びの延長のようなものだ。長い年月をかけて原点に戻ってきた、という感もある。

「あれを聞いて喜んでくれる人もけっこういるんだよね。楽器を練習してる人だけじゃなく、よくできたカヴァー・ヴァージョンとして聞いていて楽しい、と言ってくれる人もいて。労力を考えたらとても割に合わないけど、自分が得意で楽しんでやっているもので人が喜んでくれるなら、とても幸せなことだからね」

 今も20代のころと変わらず若々しい大槻も、年齢なりの心境の変化は感じ取っているようだ。

「この歳になるとさ、悲しいかな、そんなに大きな野望って持てないのよ、現実問題(笑)。
この世に生まれてきたからには、足跡は残したいと思う。でも自分の望まない形の足跡が残るのは、あまり幸せじゃない。
ヴィジョンをもって活動してきたわけでもないし、ある意味では流されてきた人生だからさ。自分の中では音楽的な筋は通ってるんだけど、なんとなくその場その場で流されて生きてきた分、活動として見た場合、あんま筋が通ってないところがあるからね。だから、オレの足跡ってこんな感じ、って納得できるようなものを残したい。このまま何もしないと浜田麻里の”Return to Myself”を作った人、ってところで終わっちゃうじゃん。もちろんそれはそれで立派な足跡だけど、それだけじゃない、実はこうだったんだな、と思わせるような足跡も残していきたい。そのためには何をするべきか、ということを最近は考えてるかな」

 僕にとって大槻と言えば、熱心な音楽リスナーであり、あの日の阿佐ヶ谷のアパートのように、自分の好きな曲を好きなように弾いていれば幸せなギターの虫である。もちろん作曲家や編曲家としての才にも恵まれここまで来たが、彼の本質はそこだけではない。

「アーティストというよりはいち音楽ファンなんだと思う。人の音楽を一切聴かない人もいるでしょ。そういう人とはむしろ逆でさ。人の音楽を聴いて育ったし、今でも人の音楽を聴くのが好きだしね」

 その感覚を失わず、いつまでも我々と同じように、好きな音楽についてならいくらでも語れる。それが大槻の魅力なのかもしれない。

 還暦記念ライヴは、気の置けないゆかりの音楽家たちを招き、大槻を形作ってきた古今の名曲、そしてオリジナル曲がプレイされる楽しいイベントになるようだ。それが終われば次は70歳イベントである。お互いジジイになるまでしがみついて、ロックの未来を見つめてやろうと思っている。

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大槻啓之インタビュー(中)by 小野島大

 [HIPS結成、そして浜田麻里との出会い]

 「4年間続けてきたバンドが終わってしまって、これからどうしようと思った。これはもう、自分のバンドをやるしかないなと」

 それが1984年に結成されたHIPSである。七田コージ(vo.&b)、三根生啓(ds)、友成好宏(key)ーーのちに大谷哲範(key)に交代ーー、そして大槻という4人編成だ。アマチュア時代に一緒にやったことのあるドラマーの三根生にまず声をかけ、かってライヴ・ハウスで対バンしたことがあり、その甘い声が印象に残っていたヴォーカル/ベースの七田を口説き落とし、泉洋次&スパンキーで一緒だったキーボードの友成に声をかけて結成した。その時大槻は28歳。最初のリーダー・バンドとしては遅い。実際、そばで見ていた印象からすると、それまではメンバーを探して自分のバンドを組む、ということにそれほど熱心なようにも見えなかった、というのが正直なところだ。

 「そこは性格だろうなあ(笑)。あまり社交的な方じゃないし、わりと人見知りだし。人とコミュニケーションとるのは苦手だし。よくカミさんに言われるのよ。これというメンバーに出会えなかったのは、あなたが探す努力をしなかったからだ、とかさ。でもそういうメンバーに出会えるかどうかって、運命みたいなところもあるじゃない?」

 HIPSが運命のメンバーだったかどうかはわからない。だがそれまでともすれば周りに流されがちで、お膳立てされた流れに乗っかるような生き方をしてきた大槻が、初めて自分の意思でメンバーを集め、バンドを組んだ。そして重要なのは、ここで大槻は生まれて初めてきちんと「自分のオリジナル曲」を書いたという事実だ。

 「自分でバンドをやるんだったら曲がないと話にならない。それまで何曲か作りかけてたことはあったけど、作曲にはそんなに積極的じゃなかった。そこから性根を入れて曲を作り始めたわけ」

 その中の1曲が大槻の運命を大きく変える。たまたま出会ったビクターのディレクター石原誠一郎が、担当していた浜田麻里の曲を書いてみないかと大槻に勧めたのである。石原は泉洋次&スパンキーのシングル「狼よ一人で走れ」の担当で、大槻とは旧知の仲だった。そのとき浜田は2枚目のアルバムを出したばかりで、初期のヘヴィ・メタル路線を支えたプロデューサー樋口宗孝(LOUDNESS)の元を離れ、セルフ・プロデュースによる新路線を模索中で、楽曲を広く外部に求めていたのもタイミングが良かった。大槻はHIPSのために書いていた曲をいくつか石原に提出し、その中の1曲「Paradise」がサード・アルバム『Misty Lady』(1984年)のオープニング・ナンバーに採用されたのである。現在まで続く大槻=浜田のコラボレーションの始まりであり、作曲家大槻啓之の誕生である。

 とはいっても当時の大槻の望みは職業作曲家になることではなく、新バンドHIPSを軌道に乗せることにあったはずだ。

 「当時ユートピア(トッド・ラングレン)みたいなバンドを作りたかったんだよね。当時のメンバーの資質がそれに合致してたかどうかは今から思うと疑問だけど(笑)」

 大槻がトッド・ラングレンにはまったのは大学生時代。友人からトッドのライヴのテープをもらったのがきっかけで、大槻はそれが僕ではないかと言うのだが、正直記憶は定かではない。だがその時、トッド流の分数コードや転調を多用した凝った曲作りを知り、ブルースやロックンロール以外の幅広い音楽性に触れて、それはその後のアレンジや曲作りに大いに生かされることになる。

 HIPSのキーマンとなるのは、ベース/ヴォーカルの七田コージだった。大槻より3歳年上の七田の資質が、良くも悪くもHIPSというバンドを象徴していたようだ。それはHIPSというバンドの良さであり限界でもあった。

 「コージは<永遠の偉大なるアマチュア・ミュージシャン>なんだよ。キャリアは長いけど実際プロとしての活動歴はなくて、すげえいいものは持ってるんだけど、どっか緩いんだよね。テキトーっていうか(笑)それって彼の持ち味でもあるんだけど、そこが許せる時と許せない時があって(笑)」

 大槻と音楽的な指向が近く、声も甘く魅力的。人間的にもウマがあう。だがバンドを売り物レベルに持って行くためには少し何かが足りなかった。

 「HIPSのデモテープを作ったんだよ。ポップでそれなりに自信もあったんだけど、結局どこからも相手にされなくて。よく言われたのは、やはりヴォーカルが弱いということ。確かに今から思えば、そう言われるのはやむを得ないかなとは思う。特にレコード会社の人とか売る側の人間は何よりもヴォーカルを重視するからね」

 HIPSのライヴは僕も何度か見ているが、バンドの演奏力は強力で、楽曲も良かった。当時のライヴ・ハウス・バンドの水準ははるかに超えていたと思う。だがそろそろインディーズ・ブームからバンド・ブームに向かおうかという時期、BOOWYやブルー・ハーツといった新しいバンドがブレイクしつつあったときに、少しだけタイミングが悪かった、ということは言えるかもしれない。

 [浜田麻里での大ブレイク]

当時の大槻の生活はといえば、浜田麻里の仕事などはあったが、まだ十分とは言えず、もちろんHIPSだけで生活できるわけもない。バイトや周囲の援助などで食いつなぎながらの音楽活動だったが、生来の性格なのか悲壮感も見せず、どこか楽観的な明るさを漂わせていたのは、この男の良さでもあるだろう。

 「もちろん(将来の)不安はあったよ。ていうか今でも不安だけどさ(笑)」

浜田麻里も、関わり始めた当初はまだ知る人ぞ知る存在だった。大きな節目となったのが初の海外レコーディングとなったLA録音の『IN THE PRECIOUS AGE』(1987年、7作目)である。それまで多くてアルバムに1曲だった大槻作品が初めて3曲採用され、LAの現地ミュージシャンやプロデューサーからの大槻作品への評価がきわめて高かったことがひとつのきっかけとなったのではないか、と大槻は分析する。続く『LOVE NEVER TURNS AGAINST』(1988年)では5曲提供と、完全にメイン・ソングライターの地位を獲得。シングルでは「FOREVER」「CALL MY LUCK」「Heart and Soul」と3枚続けて楽曲を提供、この頃の浜田の加速度がついた感じの勢いは凄まじく、大槻とのコラボレーションがどんどん研ぎ澄まされていったのがよくわかる。2013年末に僕が浜田にインタビューした時も(http://natalie.mu/music/pp/hamadamari)「あの頃はそうですね。高揚感がありますね。手応えを感じて。いけるぞって感じはありました。もっともっといけそうだなという手応えがありましたね」と、当時のことを振り返ってくれた。

 そしてその勢いが頂点に達したのがシングル「Return to Myself」とアルバム『Return to Myself 』だった(1989年)。共にオリコン・チャート1位を記録し、浜田にとっても大槻にとっても、現在までのところ唯一のチャート1位ヒットとなっている。ある意味で両者のキャリアのピークを示した作品、とも言えるだろう。日本経済はバブルの狂乱に浮かれ、音楽業界もまた我が世の春を謳歌していた時代である。浜田のアルバムのデモテープ作りのためにビクター青山スタジオの401(最上階の一番広いスタジオ)を一ヶ月ベタ押さえしたこともあったらしい(しかもバンドを使わない打ち込み作業で)。今では考えられない贅沢な金の使い方だ。

 音楽的にはトッド・ラングレンの影響が強いころで、分数コードや度重なる転調、予測のできない展開など凝った曲作りをしていたので、浜田としては挑戦しがいのある曲、と映っていたようだ。それでいてポップでキャッチーでドラマティック、というあたりが浜田が気に入っていたのだろう。

 当然HIPSでも並行して楽曲を作っていたわけだが、ヴォーカルのキー設定が違うぐらいで、曲作りへの基本的な姿勢は浜田提供曲もHIPS曲も変わらない、という。つまりやりたいことと求められている曲が合致していた時代だったということだ。アーティストとして理想的な状態と言える。

 「自分の人生を振り返って、ひとつだけ言えるのは、嫌なこと、やりたくないことはしてこなかった、というのはあるな。サポートにしろレコーディングにしろ、演歌とか歌謡曲とか、そういう畑違いの仕事は一切やってない」

 とはいえ後悔がないわけではない。浜田麻里の仕事で得た勢いを、ほかの仕事へと広げられなかったのだ。オリコン1位まで獲った作曲家なのに、浜田以外の仕事は当時ほとんどやっていない。数少ない例外としてB’zのファースト・アルバム『B’z』に「孤独にDance in vain」という曲を提供しており、B’zのオリジナルで唯一松本孝弘以外のコンポーザーが作った曲として一部のB’zファンには知られているが、大槻自身がアピールしないこともあって、一般に浸透しているとは言いがたい。「もう少しうまく立ち回っていれば、もっと仕事の場を広げられた。そういう意味で賢くなかった」と大槻は自嘲気味に言う。そういうガツガツしない欲のなさが、大槻の人間としての魅力でもあるにせよ、もったいない話ではある。

 「その時点でもなお、職業作曲家・編曲家として性根を据えてやっていこう、という覚悟ができてなかったんだろうね。つまり、やっぱりバンドがやりたかったんだと思う」

 [大槻啓之はアーティストなのか?]

その時点で既にHIPSは解散していた。こいつと一緒にやりたい、という相手もいない。バンドをやる気だけはあるのに、組む相手がいない。ならソロ・アルバムでも、と思うし、実際そういう話は石原ディレクターからもされていたようだが、結局実現しなかった。なぜかと言えば「Lazyだから」と大槻は笑う。

 「その頃オレはよく”曲を作るのは嫌い”って言ってたの。実際曲を書くときは七転八倒の苦しみだったし、どうしても逃げたくなる。今でも思うけど、自分に生まれついてのコンポーザーとしての才能があったかどうか、はなはだ疑問なんだよね。つまり、頑張ればそれなりにいい曲は書ける。でも突き詰めていえば、アーティストとそうじゃない者の違いに行き着くわけ。オレはアーティストになりたかったけど、結局アーティストとしての器じゃなかった、と思う」

 では大槻の定義する「アーティスト」とは何か。

 「<吐き出さずにはいられない人>かな。表現したいものを持っている人。オレにはそれは薄い。たとえばジェフ・ベックとピート・タウンゼンドを比べたらどっちがアーティストか、っていうのと一緒(笑)。いみじくもピート・タウンゼンドがどっかのインタビューで言ってたよ。ジェフ・ベックのギターは確かに凄いけど、あれで中身があればもっと良かったのにね、と(笑)。それはすごくよくわかる。歌とか楽器がうまいへたってこととは別に、アーティスティックな人っているじゃん。比べたら、自分は全然アーティスティックじゃない」

それは技術でもセンスでもなく、一種の生きざまの問題だろう。ここでそれを吐き出さなければ死んでしまう、命を削ってでも表したいものがあるかどうか、そんな表現衝動を山ほど抱えた者がアーティストである、ということだ。

 「オレにはそんなものはないからね。オレは必要に駆られて作り出すだけ。作り出すためのスキルは持っている。だから他人から必要とされなければ、5年10年と一曲も作らなくても死なないしね(笑)」

 ところで大槻はジェフ・ベックの前のヒーローだったというエリック・クラプトンのように、ヴォーカリストとしてやっていくつもりはなかったのだろうか。

 「アマチュアのときは歌ってたけどね。でもだんだん耳が肥えてくると、自分のヴォーカルではアカンな、と気づくわけ。でもそこはスキルというよりメンタルの問題で、オレが歌うことを諦めずに続けていて、歌詞も自分で書くようなスタンスだったら、活動の仕方もだいぶ変わったと思う」

 ここらへんも大槻という音楽家を理解するにあたっての肝だろう。

 「曲を書き出したのも決して早くないからね、音楽キャリアからしたら。世代的に仕方ないとは思うけどね。聴いてたのが遠い外国の音楽でさ。手近な存在じゃなかった。今でこそ洋楽邦楽の上下はないけど、オレらが子供の頃はビートルズもストーンズも手の届かない遠い憧れだったから。そういう音楽を自分が作れるとも思ってないからね、最初は。有難く聴かせてもらって、有難く勉強させてもらう、ぐらいの感覚だよ。だから最近の若い子が楽器を始めてコードを3つぐらいしか覚えてない段階でいきなりオリジナルを作り出すような感性とは真逆だよね」

 その「楽器初心者がロクに弾けもしないのにいきなりオリジナルを作る」とは、まさにパンク以降の感性だ。さきほどのアーティスト論に沿っていえば、パンクとはアーティスティックであれ、という教えだったとも言える。バンドやロックをやるのにややこしいテクニックなどいらない、誰にでもできるものなのだ、ヘタでもなんでも自分が言いたいこと、歌いたいことを歌うこと、自分のオリジナリティが大事なのだと若者に教えたのがパンクだった。だがパンク登場までに、まだアマチュアだったとはいえ十分なキャリアを積み、楽器テクニックを学んで、お手本たる英米のロックに少しでも近づこうとしていた大槻たちにとって、そんな考えはもっとも縁遠いものだったかもしれない。

 おそらく大槻が組むべきバンドがあるとすれば、そうした表現衝動を持ったアーティストをサポートしバックアップするというコラボレーションだろう。だが残念ながら現在に至るまでそれは実現していない。

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左写真、HIPS時代のライブショット         右写真、’89年LAのスタジオにて

 

 

大槻啓之インタビュー(前)by 小野島大

 大槻啓之は初めて会った時から印象が変わらない。髪型もそうだし、風貌も、体型も、外見も、話し方も、物腰も、大学1年の時初めて教室で出会ってからまったく変わらない。お互いたっぷり40年は歳をとったというのに、会えば即座にあの時に戻ってしまう。

 大槻と僕は同じ大学の同級生だった。僕はまだ将来定かならぬモラトリアムなボンクラ学生。だが彼は将来プロのギタリストになるという目的がはっきりしていた。もちろんギターの腕はそのころからずば抜けていたが、といってガチガチのプロ志向で人を寄せ付けぬようなストイックな雰囲気を漂わせていたわけでもない。遊びもすれば馬鹿話もする。もちろん年頃の男子だから、女の子の話題だって大好きだ。そんな中でも自然に一座の会話の中心になってしまうような、人を惹きつける魅力があった。同級生のボンクラどもの中で、彼だけはどこか違っていたのだ。こういうやつが将来ロック・スターになるんだろうなあ、と思っていた。

 彼の東京・阿佐ヶ谷の6畳一間風呂なしのアパートに悪友数人で集まって朝まで盛り上がったのは、今でもいい想い出だ。リクエストすれば気軽にどんな曲でもエレキで弾いてくれる「人間ジュークボックス」。レッド・ツェッペリンでもローリング・ストーンズでもグランド・ファンクでも、なんでも器用に弾きこなす。酒も飲まずに大声でエレキにあわせ放歌高吟していたら向いの家の人に怒鳴り込まれた。僕にとって大槻はそういう人間だ。音楽が好きで、ギターを弾くことが好きで、好きな音楽をギターで好きに弾ければ、ほかに何もいらない。いや、実際には若いなりに野心も色気もあったろうが、僕にとって大槻はそんな音楽好きのギター小僧そのものだったのである。

 大槻に教わった音楽やアーティストも多い。僕は大学時代に出会ったパンク〜ニュー・ウエイヴにどっぷりはまって、いつしか大槻とは音楽的指向が違ってきてしまったけど、彼の才能を一度だって疑ったことはない。時は流れ、僕は何の因果か音楽評論家となり、大槻は当然のようにプロの音楽家になった。あの頃の僕らと、今の僕ら。何も変わっていないようでもあるし、あの頃思い描いていた将来像とは少し違うような気もする。

 彼は今年、生誕60年という節目を迎えるにあたって(当然、僕も同じように今年60歳になるわけだが)、アニヴァーサリーのイベントをやるという。お互い、もういい歳だ。もしかしたら彼とじっくり話をするには今が最後のいい機会かもしれない。そう思って、僕は久々に大槻のプライベート・スタジオを訪ねた。愛犬のデイジーが、相変わらず人懐っこく出迎えてくれた。40年来の友だちと改まってテレコを挟んで対峙するのはいささか気恥ずかしい。

*   *   *

 [京都時代]

 大槻啓之は1956年6月28日京都府舞鶴市に生まれ、まもなく宮津市に引っ越している。京都と言っても日本海側、天橋立のある地方都市だ。父親はごく普通の公務員、母親は専業主婦で、姉が2人。幼いころはマンガやアニメやプラモデルが好きなどこにでもいる普通の子供だったが、1965年、9歳の時に見た加山雄三主演の『エレキの若大将』に衝撃を受け、ギターを始める決意をする。東宝得意の怪獣映画『怪獣大戦争』の併映だったこの作品、僕も当時見た記憶があるが、特にギターに強い関心を持つことはなかった。ギタリストになる者とそうでない者の違いが、もうここで表れている。

 「モノとしてのエレキギターっていうのが、モデルガンとかさ、あらゆるおもちゃの中でもっとも刺激的で魅力的なものに見えたんだよね」

 上の姉がウォーカー・ブラザーズが好きだったり、後に姉弟3人で小遣いを出し合ってモンキーズのアルバムを買ったりしたこともあったが、誰かが楽器をやっていたりとか、とりわけ音楽的な家庭環境にあったわけではない。映画に衝撃を受けエレキを両親にねだったもののいきなり買ってもらえるわけもなく、叔父さんのお古のガットギターを譲り受けてもらった。やがて当時の人気TV番組『ビートポップス』(大橋巨泉が司会だった)でローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を聴いてロックに目覚める。念願のエレキを手にしたのはその翌年、中学に入ってからのことである。高校に入って周りの友だちを誘って初めてのバンドを組み、ストーンズやクリームやT・レックスなどをコピーしていた。

 大槻の代名詞ともいうべきジェフ・ベックは、中学生の時ジェフ・ベック・グループ(第一期)の「監獄ロック/プリンス」のシングル盤で聴いたのが初めて。その時は「何をやっているのか全然わからなくてコピーできず、そこで一旦関心は薄れた」ものの、ベック・ボガート&アピスの『ライヴ・イン・ジャパン』(1973年)を聴いて「これならコピーできそうだ」と思い、そこから熱が再燃したという。

 「オレの腕があがったのもあるし、アームも何もついてないレスポールを弾いてて、しかもライヴだからダビングもしてないでしょ。ギミックが全然なくて、聴けば何をやってるかだいたいわかるわけ。一個一個の音を拾いやすい。でも『ベック・オラ』とか、ギターを何本も重ねてるし、ミックスもぐちゃぐちゃじゃん? 一個一個のギターの音を聞き取るのが大変で、フィードバックだのアーミングだのでギミック一杯だから、中学生ぐらいの段階ではまったく理解できなかった。でもBB&Aのライヴはコピーしやすかったから、そこからハマったね」

 もちろん当時はコピー譜などない。弾き方を懇切丁寧に教えてくれる教則本や動画があるわけでもない。すべて自分の耳だけを頼りにコピーするしかなかった。だがそんな状況でもメキメキと腕をあげ、ロックの代表曲を寸分違わず演奏してみせ、友だちを驚かせる。この頃には既に、少ない機材を駆使しての一人多重録音に挑んでいたというから、まさに三つ子の魂百までも、だ。

 どうやら自分には才能があるらしいと気づいた大槻がプロのミュージシャンになろうと決意したのは高校生のとき。高校を卒業したら上京して、バイトをしながらプロのギタリストを目指そうとしたが、母親にせめて大学だけは出てくれと泣かれて、進学を決意した。ま、よくある話である(笑)。大学の4年間の間にプロになるきっかけを掴めなければきちんと就職するという約束で、東京に送り出してもらった。

 [学生時代〜待望のプロデビュー、そして挫折]

 さて、既に高校時代にかなり腕を上げていた大槻は、いわば地元では敵なしの「お山の大将」だった。だがそれで東京でもすぐ通用する、と考えるほど大槻は自信家ではなかった。どうせすぐに天狗の鼻をへし折られるだろう、と。だが実際にさまざまな現場に顔を出し、アマチュア・ミュージシャンのセッションのような場で弾くと、意外と絶賛されることが多かった。もちろん、大学の同級生だった僕たちも、大槻のギター・プレイにぶっ飛んだクチだ。

 「だけど考えてみると、本当に巧い、凄い人は、アマチュアがうろうろしてるような現場にはいないわけよ(笑)。だから本当に凄い奴に出会わなかったのは、そういうところに行かなかったというだけの話」

 まったくツテもなかった東京で、なんとかプロのミュージシャンになるべく、あちこち動き回る。これというメンバーとバンドを組み、バンドでデビューできれば理想的だ。上京してきた当時は「ハンブル・パイみたいなバンドをやりたい」と思っていたらしいが、スティーヴ・マリオットのようなヴォーカリストがそう簡単に見つかるはずもない。親との約束もあり、当時はとにかくなんでもいいからプロになるきっかけが欲しかった。そこで加入したのがとし太郎&リバーサイド。大槻のプロデビューとなったバンドだ。既にデビューが決まっており、ギタリストを求めていた。知人のツテでそのオーディションを受け見事合格した。

 「どんな音楽性のバンドなのか全然知らなかったけど、チャンスと思って受けたらその場で採用になった。デビューが決まってたから即リハーサルやってシングルをレコーディングして。今聴くと悪くないんだけど、当時は自分のやりたい音楽とだいぶ違ってたし、メンバーの雰囲気も全然ロックっぽくなかったから、違和感はあったね」

 結局とし太郎&リバーサイドはシングル「陽よりまぶしく 風よりはげしく」とアルバム『RIVERSIDE』(ともに1979年)に参加しただけで脱退してしまう(セカンド・シングル「ジェーンがかわいそう」の演奏にも参加しているが、リリースされたのは脱退後なので、ジャケットのメンバー写真には載っていない)。自分から脱退したというより、同年、後藤次利バンドのオーディションに成り行きで参加したところ合格してしまい、辞めざるをえなくなってしまったのである。元サディスティック・ミカ・バンドのベーシスト、後藤次利は当時アレンジャーとして沢田研二の「TOKIO」でレコード大賞編曲賞を受賞するなど、もっとも勢いのある音楽家のひとりだった。その後藤にフックアップされたのは、大槻のキャリアにとって大きな意味を持つはずだった。

 「まさかオーディションに合格するとは思ってもいなかった。当時は後藤さんのスタジオ現場に呼ばれていろいろ勉強させてもらったけど、そのころオレがスタジオ・ミュージシャンとしてキャリアを磨こうという意識があれば、前向きに仕事に取り組んだと思う。でもむしろ逆だったからね。その時は譜面もロクに読めなかったし、プレイの引き出しもないから、ついていくので精一杯だった」

 スタジオで当面出番がないと、「大槻君、休んでていいよ」と言われる。駆け出しのギタリストなら、自分の出番がなくても先輩たちの仕事を向学のため見学しなきゃいけないところだが、大槻はあろうことかスタジオの外に出てロビーでゲームをやっていたという。いかにも当時の大槻らしいエピソードで苦笑のほかないが、そうした姿勢では周りからは「やる気がない」「プロ意識に欠ける」と見られても仕方がない。案の定、大槻はファースト・シングル「怒れ兄弟!」1枚で後藤バンドをクビになってしまう。「この世界でなにがなんでも食っていこうという気概が感じられない」という理由で。

 「スタジオの仕事自体は好きだったけど、歌謡曲みたいなものをやる気はなかったからね。でも……真面目にスタジオの仕事に取り組んだとしても、結果は一緒だったかな。技術も知識も経験も、あらゆるものが追いついてなかったから。今ならたとえロックとはかけ離れた曲のレコーディングであっても、その中で自分の個性を生かすことができるけれども、当時はそんなノウハウもスキルもなかったからね」

 大槻にとってみれば、後藤次利バンドで思いきりロックができると思っていたら、バンドでの活動が思ったよりも少なく、スタジオ・ワークが多かったという失望感もあったようだ。

 「若いバンド・メンバーに経験を積ませたい、食わせなきゃいけないという後藤さんの親心もあったんだろうけど、当時はそれがわからなかった。若いから、稼ぎが第一じゃないわけよ。自分がかっこいい、面白いと思える音楽をやることが一番の望みだったわけで。それができずに、それほどやりたくもないスタジオの仕事をずっとやらされたという思いがあって。今から思えば考えが甘かったと思うけれども」

 [泉洋次&スパンキー]

 後藤バンドはクビになったものの、大槻はスタッフからの紹介で、後藤と同じ事務所に所属していた新進シンガー・ソングライター、泉洋次のサポート・バンドに加入する。すっぱり事務所とは縁を切って自分のバンドをやろうとしなかったのは、もしかしたら当面の腰掛けという意識もあったのかもしれないが、意外やこのバンドには長く深く関わっていくことになるのである。

 「バンドはキーボード(後にHIPSを共に結成する友成好宏)が2歳下で、あとは全員オレより3つ上だったんだけど、音楽的なイニシアチブを早い段階で握ることができた。泉洋次の作る曲を全部オレがアレンジして、やりたいことがやれてたんだよね」

 間もなく泉が事務所を離れることになり、事務所から給料をもらって泉をサポートしていた大槻たちはサポートを続ける義務もなくなったのだが、「自分にとってはお金より音楽だったし、自分が楽曲アレンジを一手に引き受けていたから、給料が出ないからと言って、このまま辞めるという発想にはならず」泉と行動を共にすることを選択する。泉洋次&スパンキーの結成である。

 「オレと彼の音楽的な共通項でいえばストーンズとかフェイセズとかロッド・スチュワートとか。彼はブルース・スプリングスティーンも好きだったのかな。彼の作る曲の感性とかメロディとかコード進行は邦楽テイストだったけど、それにオレがアレンジで洋楽テイストを注入する、というスタイルだった」

 サポート・バンド時代も含めると泉とは結局4年ほど活動を共にした。シングル盤は1枚(「狼よ一人で走れ」)出したけれども、アルバムは完成したもののお蔵入りになった(マスターテープの所在は不明)。結局大きくブレイクすることはなかったけれども、大槻にとっては実質的に初めてのバンドであり、またもっとも長く続けたバンドでもある。音楽キャリア上の大きなトピックとなったことは間違いないだろう。「苦労もしたけど、いい想い出もたくさんある」と大槻は懐かしそうに振り返る。結局泉洋次&スパンキーは1984年に解散した。
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左から中学生時代、プロデビュー前の学生時代、リバーサイドでの生まれて初めてのレコーディング時、泉洋次&スパンキー時代  

 

50/60 Years…

考えてみれば、ギターを手にしてから今年でちょうど50年…!
う〜ん、半世紀もギター弾いてるにしては、たいして上手くなってないよなあ。

何せ大昔のことなので細かいことはあまり憶えていないけれど…
お目当ての怪獣映画の同時上映だった加山雄三の主演映画『エレキの若大将』!!!
この映画を観てしまったことで、突然ギターを始める決心をした訳であります。

昭和41年、1966年、小学校4年生の時です。

当時、同じように感化された人、いっぱいいるんでしょうね(笑)

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当然のこと、ギターといっても「エレキ」、つまりエレキギターがやりたかった訳ですが、
最初に手にしたギターは叔父さんから譲り受けたガットギター。

中学に入って初めてのエレキギターを買ってもらうまでは、そのガットギターが唯一の相棒で、
雑誌の付録の歌本でコードを覚え、レコードで聴いて気に入った曲のメロディやフレーズを
指板上で音を探りながら、コピーに明け暮れる毎日でしたね。

あの頃から50年…

当時の自分には想像もつかないような年齢になってしまったけど、
未だギターを弾くことにときめくことが出来るのって、悪くない気がする。

 

弦張り替える時どうしてますか?

 

みなさん、ギターの弦を張り替える時って、どうしてますか?

まず最初に6本の弦を全部外してから張ります?

それとも1本ずつ外して、張って…を繰り返しますか?

僕は絶対的に後者です。

ストラトなどトレモロ付きのギターの場合はもちろん、アコギだろうがトレモロなしのギターだろうが、すべて1本ずつ外して、張って、大雑把にチューニングして、次の弦を外して…という手順を繰り返していきます。

これはあくまでも個人的な感覚上のことですが…最初に6本の弦全てを外してから弦を張ると、それまでのセッティングと何か微妙に変化してしまったと感じることが少なからずあって、逆に1本ずつ換えて行った方がそういった変化をより少なく出来ると感じるからです。

全部の弦を取り去った場合、それまでギターの各部に掛かっていた弦のテンションがゼロになって、ギターの状態が一旦完全にリセットされます。それがおそらく原因だと思うのですが、これがトレモロ搭載のギターになると、その違いはより顕著になります。

例えばストラトの場合、6本の弦の張力とトレモロのスプリングでバランスを取っている状態なので、そのバランスがリセットされたところから弦を張って行くと、以前と同じ状態のバランスに達するまで延々とチューニングを繰り返すことになります。
さらにこの間、ペグポストでの巻きたるみを取ったり、アーミング時のチューニングの戻りを確認しながらの作業になるので、全体で見るとけっこうな時間がかかるでしょう。

一方、弦を張った状態を維持しながら、1本ずつ外して→張って→チューニングして…というのは一見面倒そうに見えるかもしれませんが、トレモロ周りのバランスの崩れが少ない状態をキープしながら弦を張ることになるので、6本の弦を張り終えた時にはほぼ安定状態になっています。

それぞれの作業時間を計測したことはないので、どちらが早いのかは実際のところわかりません。
個人的には後者の方が効率良く感じますし、弦交換後の違和感もほとんどないことから、お薦めはしますが、まあ、人それぞれ感じ方は違いますので、ご参考までに。

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トレモロ大好き 5 〜板バネ その参〜

どんなタイプのトレモロユニットのギターであれ、その調整法には方程式のようなものはありません。ギターというものが『木』という均一性のない材で出来ていることも関係しているでしょうが、「ここをこうして、あそこをこうすればどんなギターも完璧..!」みたいな訳には行きません。

もちろん、それぞれのギターのタイプごとに有効と思われる方法はいろいろあって、上手く行けばかなり完璧に近い状態に持って行くことも出来ますが、上手く行ったからと (全く同じモデルの) 別のギターに同じやり方を試みても、良い結果がでないことはままあります。
かと思えば、思いつく限りのあらゆる方法を試しても上手く行かず、「万策尽きたか…」とあきらめかけた頃にほんのちょっとした事で状況が劇的に改善されたなんてこともあるので、結局のところ、いかに根気よくギターと向き合えるかの勝負なんでしょうね。

あとは「妥協点」を決めることも大事かもしれません。過去の体験上、やはり全てのギターが納得のいく状態に調整出来るわけではありませんので。

よくある事例として、チョーキングしたらフラットした→ペグを回してチューニングを直す→アームを使う→今度はシャープしてしまう…というのがありますが、この場合フラットしてもペグで直さずに、アームを1回ダウンorアップすることで戻せるようにしておけば、とりあえず演奏上の大きなトラブルは避けられます。

基準が分からなくなるぐらいチューニングがばらばらになってしまうと、もうどうしようもありませんが、どこがどう狂ってるのか概ね把握出来ていて、素早い動作でリカバリー出来る…あるいはアーミングの使用強度/範囲を大きな狂いが出ない程度にとどめておく、など最低限演奏続行可能な状態をキープ出来ればひとつの妥協点と考えて良いと思います。

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トレモロ大好き 4 〜板バネ その弐〜

一般的なトレモロアーム使用時のチューニングの狂いの原因って何でしょうか?

1)ナット部分での摩擦
(ストリングガイドも含む)

2)アーミング後のアームの位値が元のニュートラル位置に戻り切っていない
(アームダウン時とアームアップ時で戻る位値が違う)

3)ブリッジサドル上の摩擦
(可動ブリッジの場合の位置ずれ)

4) ペグ/ストリングポストの弦の巻き方
(ペグ/ストリングポストのガタつき、弦の巻きたるみ etc…)

5)  使用している弦のゲージ、テンションが適正でない

主立った原因はだいたいこの中のどれか、あるいはその複合的なものである場合がほとんどです。

ただ今回取り上げている板バネ/マエストロ・バイブローラは、そのシンプルすぎる構造が幸いしてか、2) のアーミング後の戻りが悪いケースはなかなか考えづらく、チューニングの問題が起きる場合は、それ以外の1)3)4)5)の各ポイントを検証して行くべきでしょう。

まずは1) のナットです。バイブローラ搭載のギターと言えば、基本的にはギブソンなので、ファイアーバード以外のモデルはヘッドのペグ構成が3対3になっており、ナット上の弦溝に若干角度が付いています。ここでの引っ掛かりというか摩擦で、アーミング時に動いた弦が元に戻りきらずに狂ってしまう….というのが、まずはもっとも多いパターンでしょう。

その対策として僕が昔からよくやっている、もっとも手軽でコスパの良い方法を紹介します。

それはナットの溝を鉛筆の芯で擦るだけです。
2B以上のなるべく黒鉛含有率の多い鉛筆が良いです。
潤滑油など油分を含んだものは埃が溜まったりして、逆効果になることがあるのであまりお薦めしません。
鉛筆で充分です。これだけでかなりナットでの摩擦を軽減することが出来ます。
もちろんナットの溝切りが適正に成されていることが前提ではありますが…。

それから3) のブリッジサドルの溝にも鉛筆を擦り付けます。

過去の自分の体験上、ペグ、ナット、ブリッジなど各パーツおよびギター自体に特に問題がない場合、これだけでほぼOKな状態になるはずですが…。

〜続く〜

Maestro#2_Nut

 

 

トレモロ大好き 3 〜板バネ その壱〜

今日からタイプ別に踏み込んで書こうと思いましたが、シンクロナイズドとかは書き出すと、もうちょっとやそっとじゃ納まりそうにないので、まず最初は非常にシンプルな作りの板バネトレモロ、マエストロ・バイブローラ・ユニットから行ってみましょうかね。ギブソンのES-345/355、SG、ファイアーバード、フライングVなどに搭載されていたユニットです。

何と言ってもその構造は至ってシンプル! 金属の板を湾曲させた板バネにアームの付いたテールピースがくっついているだけ。大きな長方形っぽいカバーが付いたロングタイプと、カバーなしのショートタイプがありますが、どちらも機能的には一緒。見た目的にはロングタイプの方が、ギブソンのロゴと竪琴の図柄が刻印されていてなんとも豪華な感じ。

アーミングによる音程の可変範囲は決して広くはないですが、アームダウン、アームアップ両方に対応出来て、その気になればクリケット的な音も出せるし、ゆったりしたビブラートもかけやすく、意外と使い勝手は悪くないです。

ただ実際に安定して使えるようにするには、それなりの調整が必要な場合が多いのも事実。しかしバイブローラは他のトレモロユニットに比べ極めて単純な構造のため、ユニット自体には調整などで弄れる部分がほとんどありません。 なので必然的に調整はギターのナットやブリッジ、ペグなどの方でやることになります。

詳しい調整法についてはまた次回…。

 Maestros 2

 

トレモロ大好き 2

さて、トレモロユニットと一口に言っても、仕組みや構造など実に様々な種類があります。

代表的なところでは、フェンダーのストラトキャスターに代表されるシンクロタイプ、ギブソンやグレッチ等でよく見られるビグスビータイプ、ほぼギブソン専用と言ってもいい板バネを使ったマエストロタイプ、フェンダーのフローティング・トレモロにダイナミック・ビブラート…といったあたりでしょうか?
その他、もっともポピュラーと思われるシンクロタイプを改良/発展させた形のものも数多く存在しています。

それぞれのユニットごとにはっきりとした特徴があって、アームの操作感やアーミング時の音程の変化幅などには、かなりの差があります。
なので当然演奏上、あるギターでは出来ることが別のギターでは出来ない…といったことにもなりますが、そのギターに付いてるユニットの個性を生かすような弾き方を工夫すれば良い訳で、それはそれでまたひとつの醍醐味とも言えます。

むしろ問題になるのはチューニングの安定性です。1回アーミングした途端にチューニングがぼろぼろ…では困りますね。ある程度チューニングをキープ出来ないことにはとても実用には耐えません。

トレモロが好きで実際に活用したいなら、やはり使用に耐えるだけのレベルまで持って行く必要があります。

もちろんどんなギターでも、どんなユニットでも全く微塵も狂わないように「手入れ=調整」出来るかと言えば、それはなかなか難しいですが、アーミング後の「狂い方」と「戻し方」が感覚的に掴める状態になれば充分と言えます。要はそのギター&ユニットの癖を理解してコントロール出来るようになればOKということです。

次回以降、トレモロのタイプ別に自分の体験を踏まえて、もう少し具体的なお話が出来ればと思います。

Tremolo-Fenders

 

 

 

トレモロ大好き 1

トレモロアーム、ビブラートユニット、ワミーバー…はたまたビグスビー、マエストロにシンクロ、バイブローラ…その呼び名や種類は実にいろいろあるけども、とにかくアームの付いたギターが何故か昔から大好きなのである。

人によってはまったく必要がなくて、外せるもんなら外しちゃう…って方もいるし、実際のところ全然使わないんだけど、ルックス的にカッコいいから付けてるだけ…なんて人もいますね。

僕の場合、なけりゃダメってことはもちろんないですが、あったらあったで表現の幅がぐんと拡がるので、「ルックス的に似合わない」とか「構造的に取り付けが難しい」といった理由がなければノントレモロのギターに後付けしちゃうことも多いです。一度付けてしまうともう後戻り出来ない場合もあるので、それなりの「決断」が必要ですが、付けたからには当然がんがん使いまくります。

次回からしばらくトレモロユニットに関していろいろ書いてみようと思います。

Tremolo-Bigsbys