大槻啓之インタビュー(前)by 小野島大

 大槻啓之は初めて会った時から印象が変わらない。髪型もそうだし、風貌も、体型も、外見も、話し方も、物腰も、大学1年の時初めて教室で出会ってからまったく変わらない。お互いたっぷり40年は歳をとったというのに、会えば即座にあの時に戻ってしまう。

 大槻と僕は同じ大学の同級生だった。僕はまだ将来定かならぬモラトリアムなボンクラ学生。だが彼は将来プロのギタリストになるという目的がはっきりしていた。もちろんギターの腕はそのころからずば抜けていたが、といってガチガチのプロ志向で人を寄せ付けぬようなストイックな雰囲気を漂わせていたわけでもない。遊びもすれば馬鹿話もする。もちろん年頃の男子だから、女の子の話題だって大好きだ。そんな中でも自然に一座の会話の中心になってしまうような、人を惹きつける魅力があった。同級生のボンクラどもの中で、彼だけはどこか違っていたのだ。こういうやつが将来ロック・スターになるんだろうなあ、と思っていた。

 彼の東京・阿佐ヶ谷の6畳一間風呂なしのアパートに悪友数人で集まって朝まで盛り上がったのは、今でもいい想い出だ。リクエストすれば気軽にどんな曲でもエレキで弾いてくれる「人間ジュークボックス」。レッド・ツェッペリンでもローリング・ストーンズでもグランド・ファンクでも、なんでも器用に弾きこなす。酒も飲まずに大声でエレキにあわせ放歌高吟していたら向いの家の人に怒鳴り込まれた。僕にとって大槻はそういう人間だ。音楽が好きで、ギターを弾くことが好きで、好きな音楽をギターで好きに弾ければ、ほかに何もいらない。いや、実際には若いなりに野心も色気もあったろうが、僕にとって大槻はそんな音楽好きのギター小僧そのものだったのである。

 大槻に教わった音楽やアーティストも多い。僕は大学時代に出会ったパンク〜ニュー・ウエイヴにどっぷりはまって、いつしか大槻とは音楽的指向が違ってきてしまったけど、彼の才能を一度だって疑ったことはない。時は流れ、僕は何の因果か音楽評論家となり、大槻は当然のようにプロの音楽家になった。あの頃の僕らと、今の僕ら。何も変わっていないようでもあるし、あの頃思い描いていた将来像とは少し違うような気もする。

 彼は今年、生誕60年という節目を迎えるにあたって(当然、僕も同じように今年60歳になるわけだが)、アニヴァーサリーのイベントをやるという。お互い、もういい歳だ。もしかしたら彼とじっくり話をするには今が最後のいい機会かもしれない。そう思って、僕は久々に大槻のプライベート・スタジオを訪ねた。愛犬のデイジーが、相変わらず人懐っこく出迎えてくれた。40年来の友だちと改まってテレコを挟んで対峙するのはいささか気恥ずかしい。

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 [京都時代]

 大槻啓之は1956年6月28日京都府舞鶴市に生まれ、まもなく宮津市に引っ越している。京都と言っても日本海側、天橋立のある地方都市だ。父親はごく普通の公務員、母親は専業主婦で、姉が2人。幼いころはマンガやアニメやプラモデルが好きなどこにでもいる普通の子供だったが、1965年、9歳の時に見た加山雄三主演の『エレキの若大将』に衝撃を受け、ギターを始める決意をする。東宝得意の怪獣映画『怪獣大戦争』の併映だったこの作品、僕も当時見た記憶があるが、特にギターに強い関心を持つことはなかった。ギタリストになる者とそうでない者の違いが、もうここで表れている。

 「モノとしてのエレキギターっていうのが、モデルガンとかさ、あらゆるおもちゃの中でもっとも刺激的で魅力的なものに見えたんだよね」

 上の姉がウォーカー・ブラザーズが好きだったり、後に姉弟3人で小遣いを出し合ってモンキーズのアルバムを買ったりしたこともあったが、誰かが楽器をやっていたりとか、とりわけ音楽的な家庭環境にあったわけではない。映画に衝撃を受けエレキを両親にねだったもののいきなり買ってもらえるわけもなく、叔父さんのお古のガットギターを譲り受けてもらった。やがて当時の人気TV番組『ビートポップス』(大橋巨泉が司会だった)でローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を聴いてロックに目覚める。念願のエレキを手にしたのはその翌年、中学に入ってからのことである。高校に入って周りの友だちを誘って初めてのバンドを組み、ストーンズやクリームやT・レックスなどをコピーしていた。

 大槻の代名詞ともいうべきジェフ・ベックは、中学生の時ジェフ・ベック・グループ(第一期)の「監獄ロック/プリンス」のシングル盤で聴いたのが初めて。その時は「何をやっているのか全然わからなくてコピーできず、そこで一旦関心は薄れた」ものの、ベック・ボガート&アピスの『ライヴ・イン・ジャパン』(1973年)を聴いて「これならコピーできそうだ」と思い、そこから熱が再燃したという。

 「オレの腕があがったのもあるし、アームも何もついてないレスポールを弾いてて、しかもライヴだからダビングもしてないでしょ。ギミックが全然なくて、聴けば何をやってるかだいたいわかるわけ。一個一個の音を拾いやすい。でも『ベック・オラ』とか、ギターを何本も重ねてるし、ミックスもぐちゃぐちゃじゃん? 一個一個のギターの音を聞き取るのが大変で、フィードバックだのアーミングだのでギミック一杯だから、中学生ぐらいの段階ではまったく理解できなかった。でもBB&Aのライヴはコピーしやすかったから、そこからハマったね」

 もちろん当時はコピー譜などない。弾き方を懇切丁寧に教えてくれる教則本や動画があるわけでもない。すべて自分の耳だけを頼りにコピーするしかなかった。だがそんな状況でもメキメキと腕をあげ、ロックの代表曲を寸分違わず演奏してみせ、友だちを驚かせる。この頃には既に、少ない機材を駆使しての一人多重録音に挑んでいたというから、まさに三つ子の魂百までも、だ。

 どうやら自分には才能があるらしいと気づいた大槻がプロのミュージシャンになろうと決意したのは高校生のとき。高校を卒業したら上京して、バイトをしながらプロのギタリストを目指そうとしたが、母親にせめて大学だけは出てくれと泣かれて、進学を決意した。ま、よくある話である(笑)。大学の4年間の間にプロになるきっかけを掴めなければきちんと就職するという約束で、東京に送り出してもらった。

 [学生時代〜待望のプロデビュー、そして挫折]

 さて、既に高校時代にかなり腕を上げていた大槻は、いわば地元では敵なしの「お山の大将」だった。だがそれで東京でもすぐ通用する、と考えるほど大槻は自信家ではなかった。どうせすぐに天狗の鼻をへし折られるだろう、と。だが実際にさまざまな現場に顔を出し、アマチュア・ミュージシャンのセッションのような場で弾くと、意外と絶賛されることが多かった。もちろん、大学の同級生だった僕たちも、大槻のギター・プレイにぶっ飛んだクチだ。

 「だけど考えてみると、本当に巧い、凄い人は、アマチュアがうろうろしてるような現場にはいないわけよ(笑)。だから本当に凄い奴に出会わなかったのは、そういうところに行かなかったというだけの話」

 まったくツテもなかった東京で、なんとかプロのミュージシャンになるべく、あちこち動き回る。これというメンバーとバンドを組み、バンドでデビューできれば理想的だ。上京してきた当時は「ハンブル・パイみたいなバンドをやりたい」と思っていたらしいが、スティーヴ・マリオットのようなヴォーカリストがそう簡単に見つかるはずもない。親との約束もあり、当時はとにかくなんでもいいからプロになるきっかけが欲しかった。そこで加入したのがとし太郎&リバーサイド。大槻のプロデビューとなったバンドだ。既にデビューが決まっており、ギタリストを求めていた。知人のツテでそのオーディションを受け見事合格した。

 「どんな音楽性のバンドなのか全然知らなかったけど、チャンスと思って受けたらその場で採用になった。デビューが決まってたから即リハーサルやってシングルをレコーディングして。今聴くと悪くないんだけど、当時は自分のやりたい音楽とだいぶ違ってたし、メンバーの雰囲気も全然ロックっぽくなかったから、違和感はあったね」

 結局とし太郎&リバーサイドはシングル「陽よりまぶしく 風よりはげしく」とアルバム『RIVERSIDE』(ともに1979年)に参加しただけで脱退してしまう(セカンド・シングル「ジェーンがかわいそう」の演奏にも参加しているが、リリースされたのは脱退後なので、ジャケットのメンバー写真には載っていない)。自分から脱退したというより、同年、後藤次利バンドのオーディションに成り行きで参加したところ合格してしまい、辞めざるをえなくなってしまったのである。元サディスティック・ミカ・バンドのベーシスト、後藤次利は当時アレンジャーとして沢田研二の「TOKIO」でレコード大賞編曲賞を受賞するなど、もっとも勢いのある音楽家のひとりだった。その後藤にフックアップされたのは、大槻のキャリアにとって大きな意味を持つはずだった。

 「まさかオーディションに合格するとは思ってもいなかった。当時は後藤さんのスタジオ現場に呼ばれていろいろ勉強させてもらったけど、そのころオレがスタジオ・ミュージシャンとしてキャリアを磨こうという意識があれば、前向きに仕事に取り組んだと思う。でもむしろ逆だったからね。その時は譜面もロクに読めなかったし、プレイの引き出しもないから、ついていくので精一杯だった」

 スタジオで当面出番がないと、「大槻君、休んでていいよ」と言われる。駆け出しのギタリストなら、自分の出番がなくても先輩たちの仕事を向学のため見学しなきゃいけないところだが、大槻はあろうことかスタジオの外に出てロビーでゲームをやっていたという。いかにも当時の大槻らしいエピソードで苦笑のほかないが、そうした姿勢では周りからは「やる気がない」「プロ意識に欠ける」と見られても仕方がない。案の定、大槻はファースト・シングル「怒れ兄弟!」1枚で後藤バンドをクビになってしまう。「この世界でなにがなんでも食っていこうという気概が感じられない」という理由で。

 「スタジオの仕事自体は好きだったけど、歌謡曲みたいなものをやる気はなかったからね。でも……真面目にスタジオの仕事に取り組んだとしても、結果は一緒だったかな。技術も知識も経験も、あらゆるものが追いついてなかったから。今ならたとえロックとはかけ離れた曲のレコーディングであっても、その中で自分の個性を生かすことができるけれども、当時はそんなノウハウもスキルもなかったからね」

 大槻にとってみれば、後藤次利バンドで思いきりロックができると思っていたら、バンドでの活動が思ったよりも少なく、スタジオ・ワークが多かったという失望感もあったようだ。

 「若いバンド・メンバーに経験を積ませたい、食わせなきゃいけないという後藤さんの親心もあったんだろうけど、当時はそれがわからなかった。若いから、稼ぎが第一じゃないわけよ。自分がかっこいい、面白いと思える音楽をやることが一番の望みだったわけで。それができずに、それほどやりたくもないスタジオの仕事をずっとやらされたという思いがあって。今から思えば考えが甘かったと思うけれども」

 [泉洋次&スパンキー]

 後藤バンドはクビになったものの、大槻はスタッフからの紹介で、後藤と同じ事務所に所属していた新進シンガー・ソングライター、泉洋次のサポート・バンドに加入する。すっぱり事務所とは縁を切って自分のバンドをやろうとしなかったのは、もしかしたら当面の腰掛けという意識もあったのかもしれないが、意外やこのバンドには長く深く関わっていくことになるのである。

 「バンドはキーボード(後にHIPSを共に結成する友成好宏)が2歳下で、あとは全員オレより3つ上だったんだけど、音楽的なイニシアチブを早い段階で握ることができた。泉洋次の作る曲を全部オレがアレンジして、やりたいことがやれてたんだよね」

 間もなく泉が事務所を離れることになり、事務所から給料をもらって泉をサポートしていた大槻たちはサポートを続ける義務もなくなったのだが、「自分にとってはお金より音楽だったし、自分が楽曲アレンジを一手に引き受けていたから、給料が出ないからと言って、このまま辞めるという発想にはならず」泉と行動を共にすることを選択する。泉洋次&スパンキーの結成である。

 「オレと彼の音楽的な共通項でいえばストーンズとかフェイセズとかロッド・スチュワートとか。彼はブルース・スプリングスティーンも好きだったのかな。彼の作る曲の感性とかメロディとかコード進行は邦楽テイストだったけど、それにオレがアレンジで洋楽テイストを注入する、というスタイルだった」

 サポート・バンド時代も含めると泉とは結局4年ほど活動を共にした。シングル盤は1枚(「狼よ一人で走れ」)出したけれども、アルバムは完成したもののお蔵入りになった(マスターテープの所在は不明)。結局大きくブレイクすることはなかったけれども、大槻にとっては実質的に初めてのバンドであり、またもっとも長く続けたバンドでもある。音楽キャリア上の大きなトピックとなったことは間違いないだろう。「苦労もしたけど、いい想い出もたくさんある」と大槻は懐かしそうに振り返る。結局泉洋次&スパンキーは1984年に解散した。
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左から中学生時代、プロデビュー前の学生時代、リバーサイドでの生まれて初めてのレコーディング時、泉洋次&スパンキー時代