日別アーカイブ: 2016年6月14日

大槻啓之インタビュー(中)by 小野島大

 [HIPS結成、そして浜田麻里との出会い]

 「4年間続けてきたバンドが終わってしまって、これからどうしようと思った。これはもう、自分のバンドをやるしかないなと」

 それが1984年に結成されたHIPSである。七田コージ(vo.&b)、三根生啓(ds)、友成好宏(key)ーーのちに大谷哲範(key)に交代ーー、そして大槻という4人編成だ。アマチュア時代に一緒にやったことのあるドラマーの三根生にまず声をかけ、かってライヴ・ハウスで対バンしたことがあり、その甘い声が印象に残っていたヴォーカル/ベースの七田を口説き落とし、泉洋次&スパンキーで一緒だったキーボードの友成に声をかけて結成した。その時大槻は28歳。最初のリーダー・バンドとしては遅い。実際、そばで見ていた印象からすると、それまではメンバーを探して自分のバンドを組む、ということにそれほど熱心なようにも見えなかった、というのが正直なところだ。

 「そこは性格だろうなあ(笑)。あまり社交的な方じゃないし、わりと人見知りだし。人とコミュニケーションとるのは苦手だし。よくカミさんに言われるのよ。これというメンバーに出会えなかったのは、あなたが探す努力をしなかったからだ、とかさ。でもそういうメンバーに出会えるかどうかって、運命みたいなところもあるじゃない?」

 HIPSが運命のメンバーだったかどうかはわからない。だがそれまでともすれば周りに流されがちで、お膳立てされた流れに乗っかるような生き方をしてきた大槻が、初めて自分の意思でメンバーを集め、バンドを組んだ。そして重要なのは、ここで大槻は生まれて初めてきちんと「自分のオリジナル曲」を書いたという事実だ。

 「自分でバンドをやるんだったら曲がないと話にならない。それまで何曲か作りかけてたことはあったけど、作曲にはそんなに積極的じゃなかった。そこから性根を入れて曲を作り始めたわけ」

 その中の1曲が大槻の運命を大きく変える。たまたま出会ったビクターのディレクター石原誠一郎が、担当していた浜田麻里の曲を書いてみないかと大槻に勧めたのである。石原は泉洋次&スパンキーのシングル「狼よ一人で走れ」の担当で、大槻とは旧知の仲だった。そのとき浜田は2枚目のアルバムを出したばかりで、初期のヘヴィ・メタル路線を支えたプロデューサー樋口宗孝(LOUDNESS)の元を離れ、セルフ・プロデュースによる新路線を模索中で、楽曲を広く外部に求めていたのもタイミングが良かった。大槻はHIPSのために書いていた曲をいくつか石原に提出し、その中の1曲「Paradise」がサード・アルバム『Misty Lady』(1984年)のオープニング・ナンバーに採用されたのである。現在まで続く大槻=浜田のコラボレーションの始まりであり、作曲家大槻啓之の誕生である。

 とはいっても当時の大槻の望みは職業作曲家になることではなく、新バンドHIPSを軌道に乗せることにあったはずだ。

 「当時ユートピア(トッド・ラングレン)みたいなバンドを作りたかったんだよね。当時のメンバーの資質がそれに合致してたかどうかは今から思うと疑問だけど(笑)」

 大槻がトッド・ラングレンにはまったのは大学生時代。友人からトッドのライヴのテープをもらったのがきっかけで、大槻はそれが僕ではないかと言うのだが、正直記憶は定かではない。だがその時、トッド流の分数コードや転調を多用した凝った曲作りを知り、ブルースやロックンロール以外の幅広い音楽性に触れて、それはその後のアレンジや曲作りに大いに生かされることになる。

 HIPSのキーマンとなるのは、ベース/ヴォーカルの七田コージだった。大槻より3歳年上の七田の資質が、良くも悪くもHIPSというバンドを象徴していたようだ。それはHIPSというバンドの良さであり限界でもあった。

 「コージは<永遠の偉大なるアマチュア・ミュージシャン>なんだよ。キャリアは長いけど実際プロとしての活動歴はなくて、すげえいいものは持ってるんだけど、どっか緩いんだよね。テキトーっていうか(笑)それって彼の持ち味でもあるんだけど、そこが許せる時と許せない時があって(笑)」

 大槻と音楽的な指向が近く、声も甘く魅力的。人間的にもウマがあう。だがバンドを売り物レベルに持って行くためには少し何かが足りなかった。

 「HIPSのデモテープを作ったんだよ。ポップでそれなりに自信もあったんだけど、結局どこからも相手にされなくて。よく言われたのは、やはりヴォーカルが弱いということ。確かに今から思えば、そう言われるのはやむを得ないかなとは思う。特にレコード会社の人とか売る側の人間は何よりもヴォーカルを重視するからね」

 HIPSのライヴは僕も何度か見ているが、バンドの演奏力は強力で、楽曲も良かった。当時のライヴ・ハウス・バンドの水準ははるかに超えていたと思う。だがそろそろインディーズ・ブームからバンド・ブームに向かおうかという時期、BOOWYやブルー・ハーツといった新しいバンドがブレイクしつつあったときに、少しだけタイミングが悪かった、ということは言えるかもしれない。

 [浜田麻里での大ブレイク]

当時の大槻の生活はといえば、浜田麻里の仕事などはあったが、まだ十分とは言えず、もちろんHIPSだけで生活できるわけもない。バイトや周囲の援助などで食いつなぎながらの音楽活動だったが、生来の性格なのか悲壮感も見せず、どこか楽観的な明るさを漂わせていたのは、この男の良さでもあるだろう。

 「もちろん(将来の)不安はあったよ。ていうか今でも不安だけどさ(笑)」

浜田麻里も、関わり始めた当初はまだ知る人ぞ知る存在だった。大きな節目となったのが初の海外レコーディングとなったLA録音の『IN THE PRECIOUS AGE』(1987年、7作目)である。それまで多くてアルバムに1曲だった大槻作品が初めて3曲採用され、LAの現地ミュージシャンやプロデューサーからの大槻作品への評価がきわめて高かったことがひとつのきっかけとなったのではないか、と大槻は分析する。続く『LOVE NEVER TURNS AGAINST』(1988年)では5曲提供と、完全にメイン・ソングライターの地位を獲得。シングルでは「FOREVER」「CALL MY LUCK」「Heart and Soul」と3枚続けて楽曲を提供、この頃の浜田の加速度がついた感じの勢いは凄まじく、大槻とのコラボレーションがどんどん研ぎ澄まされていったのがよくわかる。2013年末に僕が浜田にインタビューした時も(http://natalie.mu/music/pp/hamadamari)「あの頃はそうですね。高揚感がありますね。手応えを感じて。いけるぞって感じはありました。もっともっといけそうだなという手応えがありましたね」と、当時のことを振り返ってくれた。

 そしてその勢いが頂点に達したのがシングル「Return to Myself」とアルバム『Return to Myself 』だった(1989年)。共にオリコン・チャート1位を記録し、浜田にとっても大槻にとっても、現在までのところ唯一のチャート1位ヒットとなっている。ある意味で両者のキャリアのピークを示した作品、とも言えるだろう。日本経済はバブルの狂乱に浮かれ、音楽業界もまた我が世の春を謳歌していた時代である。浜田のアルバムのデモテープ作りのためにビクター青山スタジオの401(最上階の一番広いスタジオ)を一ヶ月ベタ押さえしたこともあったらしい(しかもバンドを使わない打ち込み作業で)。今では考えられない贅沢な金の使い方だ。

 音楽的にはトッド・ラングレンの影響が強いころで、分数コードや度重なる転調、予測のできない展開など凝った曲作りをしていたので、浜田としては挑戦しがいのある曲、と映っていたようだ。それでいてポップでキャッチーでドラマティック、というあたりが浜田が気に入っていたのだろう。

 当然HIPSでも並行して楽曲を作っていたわけだが、ヴォーカルのキー設定が違うぐらいで、曲作りへの基本的な姿勢は浜田提供曲もHIPS曲も変わらない、という。つまりやりたいことと求められている曲が合致していた時代だったということだ。アーティストとして理想的な状態と言える。

 「自分の人生を振り返って、ひとつだけ言えるのは、嫌なこと、やりたくないことはしてこなかった、というのはあるな。サポートにしろレコーディングにしろ、演歌とか歌謡曲とか、そういう畑違いの仕事は一切やってない」

 とはいえ後悔がないわけではない。浜田麻里の仕事で得た勢いを、ほかの仕事へと広げられなかったのだ。オリコン1位まで獲った作曲家なのに、浜田以外の仕事は当時ほとんどやっていない。数少ない例外としてB’zのファースト・アルバム『B’z』に「孤独にDance in vain」という曲を提供しており、B’zのオリジナルで唯一松本孝弘以外のコンポーザーが作った曲として一部のB’zファンには知られているが、大槻自身がアピールしないこともあって、一般に浸透しているとは言いがたい。「もう少しうまく立ち回っていれば、もっと仕事の場を広げられた。そういう意味で賢くなかった」と大槻は自嘲気味に言う。そういうガツガツしない欲のなさが、大槻の人間としての魅力でもあるにせよ、もったいない話ではある。

 「その時点でもなお、職業作曲家・編曲家として性根を据えてやっていこう、という覚悟ができてなかったんだろうね。つまり、やっぱりバンドがやりたかったんだと思う」

 [大槻啓之はアーティストなのか?]

その時点で既にHIPSは解散していた。こいつと一緒にやりたい、という相手もいない。バンドをやる気だけはあるのに、組む相手がいない。ならソロ・アルバムでも、と思うし、実際そういう話は石原ディレクターからもされていたようだが、結局実現しなかった。なぜかと言えば「Lazyだから」と大槻は笑う。

 「その頃オレはよく”曲を作るのは嫌い”って言ってたの。実際曲を書くときは七転八倒の苦しみだったし、どうしても逃げたくなる。今でも思うけど、自分に生まれついてのコンポーザーとしての才能があったかどうか、はなはだ疑問なんだよね。つまり、頑張ればそれなりにいい曲は書ける。でも突き詰めていえば、アーティストとそうじゃない者の違いに行き着くわけ。オレはアーティストになりたかったけど、結局アーティストとしての器じゃなかった、と思う」

 では大槻の定義する「アーティスト」とは何か。

 「<吐き出さずにはいられない人>かな。表現したいものを持っている人。オレにはそれは薄い。たとえばジェフ・ベックとピート・タウンゼンドを比べたらどっちがアーティストか、っていうのと一緒(笑)。いみじくもピート・タウンゼンドがどっかのインタビューで言ってたよ。ジェフ・ベックのギターは確かに凄いけど、あれで中身があればもっと良かったのにね、と(笑)。それはすごくよくわかる。歌とか楽器がうまいへたってこととは別に、アーティスティックな人っているじゃん。比べたら、自分は全然アーティスティックじゃない」

それは技術でもセンスでもなく、一種の生きざまの問題だろう。ここでそれを吐き出さなければ死んでしまう、命を削ってでも表したいものがあるかどうか、そんな表現衝動を山ほど抱えた者がアーティストである、ということだ。

 「オレにはそんなものはないからね。オレは必要に駆られて作り出すだけ。作り出すためのスキルは持っている。だから他人から必要とされなければ、5年10年と一曲も作らなくても死なないしね(笑)」

 ところで大槻はジェフ・ベックの前のヒーローだったというエリック・クラプトンのように、ヴォーカリストとしてやっていくつもりはなかったのだろうか。

 「アマチュアのときは歌ってたけどね。でもだんだん耳が肥えてくると、自分のヴォーカルではアカンな、と気づくわけ。でもそこはスキルというよりメンタルの問題で、オレが歌うことを諦めずに続けていて、歌詞も自分で書くようなスタンスだったら、活動の仕方もだいぶ変わったと思う」

 ここらへんも大槻という音楽家を理解するにあたっての肝だろう。

 「曲を書き出したのも決して早くないからね、音楽キャリアからしたら。世代的に仕方ないとは思うけどね。聴いてたのが遠い外国の音楽でさ。手近な存在じゃなかった。今でこそ洋楽邦楽の上下はないけど、オレらが子供の頃はビートルズもストーンズも手の届かない遠い憧れだったから。そういう音楽を自分が作れるとも思ってないからね、最初は。有難く聴かせてもらって、有難く勉強させてもらう、ぐらいの感覚だよ。だから最近の若い子が楽器を始めてコードを3つぐらいしか覚えてない段階でいきなりオリジナルを作り出すような感性とは真逆だよね」

 その「楽器初心者がロクに弾けもしないのにいきなりオリジナルを作る」とは、まさにパンク以降の感性だ。さきほどのアーティスト論に沿っていえば、パンクとはアーティスティックであれ、という教えだったとも言える。バンドやロックをやるのにややこしいテクニックなどいらない、誰にでもできるものなのだ、ヘタでもなんでも自分が言いたいこと、歌いたいことを歌うこと、自分のオリジナリティが大事なのだと若者に教えたのがパンクだった。だがパンク登場までに、まだアマチュアだったとはいえ十分なキャリアを積み、楽器テクニックを学んで、お手本たる英米のロックに少しでも近づこうとしていた大槻たちにとって、そんな考えはもっとも縁遠いものだったかもしれない。

 おそらく大槻が組むべきバンドがあるとすれば、そうした表現衝動を持ったアーティストをサポートしバックアップするというコラボレーションだろう。だが残念ながら現在に至るまでそれは実現していない。

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左写真、HIPS時代のライブショット         右写真、’89年LAのスタジオにて