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大槻啓之インタビュー(後)by 小野島大

 [プライベート・スタジオの充実]

 90年代に入るとギタリストとしての仕事は減り、自宅にこもっての作曲/編曲のための宅録作業の日々が続く。稼いだ印税を惜しみなく注ぎ込んで自宅に本格的な録音環境を作り、AKAIの12チャンネルマルチレコーダーを2台シンクロさせて24トラックのデジタル録音が可能なシステムを構築した。そこで大槻が1人で、ある程度まで作り込んだデモを作り、スタジオにマルチのテープを持ち込む。音源を差し替えることもあったが、大槻の自宅スタジオで作った音がそのまま最終音源として使われることも多かった。
プロトゥールズなどコンピューターによるDAW(Digital Audio Workstation)環境が普及し、今やアマチュアであっても個人でプロ水準の録音環境を整えていることは珍しくないが、90年代初頭という時期を考えれば異様に早い(プロトゥールズがプロの間で普及し始めたのが1997年ぐらい)。そうした宅録環境の充実はレコーディング予算の削減に繋がる。それなりのギャラはもらってはいたものの、通常の商業スタジオで作業するよりもはるかに安いバジェットで済んだはずだと大槻はいう。安く済むというだけでなく、一人でやっているとクライアントの細かい要求にもこまめに迅速に対応できるというメリットもある。

 とはいえ、個人で持つにはあまりに高額な機材と環境を整えた理由はなんだろうか。「自分でできることはつい手を出したくなる。餅は餅屋という発想にはならなかった」のが主な理由だが、日本人のエンジニアで、なかなかこれという人材に巡り会えなかったという事情もある。

 「ミックスを頼んでも、どうも思うようにいかない。だったら自分でやった方がいい。それでもプロ用のスタジオと同じ機材を揃えないと、同じレベルの音にはならない。安い機材をいくらいじくり回したところで、プロの現場の音にはならないんだよね。本番に通用するような音作りやミックスをやろうとすると、プロの現場と同じものをいじらないと意味がない。なのでスタジオ・クオリティの機材を買い揃えることになったわけ」

 大槻は楽器演奏も作曲も編曲も音源制作も、そしてエンジニアリングも、誰の教えも受けず、すべて独学で学んできた。それだけにセオリーを叩き込まれているプロのエンジニアにはなかなかできない、常識に囚われない自由で大胆な発想ができた。というより、彼が理想とするロック・サウンドをとことん達成しようとしたら、すべて自分でやるしかなくなった、ということかもしれない。大槻の発想や理想は、日本の島国サイズを超えていたということだ。

 そうした時期の大槻の集大成であり代表作として挙げられるのが浜田麻里の『marigold』(2002)だ。大槻の自宅スタジオで歌入れ以外のすべての作業がおこなわれ、浜田のヴォーカル以外のすべての楽器、エンジニアまで大槻が手がけた。

 「あの頃は極端に言うと浜田麻里が自分の音楽の代弁者みたいに思ってたね。自分のやりたいことを彼女を通じてやっているような意識もあった」

 大槻と浜田が喧々囂々のディスカッションを繰り返し完成させた『marigold』は、2000年代以降の浜田のロック回帰のきっかけともなり、現在の浜田の好調な活動の基礎を築いたとも言える傑作だ。音楽的にはマニック・ストリート・プリーチャーズにハマっていた時期で、その影響が大きいとは大槻の弁である。

 [ギター離れ、そしてギター回帰]

 そうした宅録作業が仕事の中心となって、作曲や編曲もキーボードを使うことが多くなり、サポート・ミュージシャンとしての仕事もしなくなって、ギターを弾く機会が極端に減ってしまったのも90年代以降だった。あの片時もギターを手放さないギター小僧にもそんな時期があったのかと驚かされるが、次々と出てくる新しい機材(主に録音系)に関心を奪われ、昔からあまり変わり映えのしないギターがオールドファッションなものに思えてしまったらしい。

 だがインターネットの時代になり、あらゆるヴィンテージ楽器がネット上で手軽に手に入るようになって、再びギターへの熱がぶり返したのが2000年代以降だった。ヴィンテージ・ギターを売っては買い、という生活は今も続いているようだ。

「世の中の動きもそうだと思うんだけど、一時期ロックから遠ざかっていたリアルタイム世代の人たちが、ちょうど2000年代に入ったぐらいから生活にゆとりが出てきて、昔好きだったレコードを聞き出したりして、一時期彼方に追いやられていたクラシック・ロック的なものが再評価されるようになってきた。たぶんヴィンテージ・ギターのブームもそういう動きとリンクしていると思う」

 ギター熱が再燃し、長らく休んでいたライヴにも復帰、曲作りにもギターを主に使うようになった。

「80年代から90年代ぐらいは世の中の流れもそうだったけど、わりと音楽的に技巧に走る時期だったのね。ひねりたがる、凝りたがる時期もあったけど、それ以降は徐々にシンプルな方向に戻ってきた。それとギターで曲を作るようになったことは多少は関係しているかもしれない」

[初のソロ・アルバム制作、そして現在〜未来]

 そして2011年には東北・東日本大震災で音楽の無力さを感じ、同時に「自身のキャリアを振り返った時、本当の意味での自分の作品が存在していないことに愕然として、ソロアルバムを作ることを決意」して、55歳にして初ソロ・アルバム『play it loud…!』を制作。

 2000年代の一時期には、アイドル向けの楽曲コンペに参加するなど、メインストリームのJ-POPとの接点を探った時期もあったというが、「自分に向いてるわけでもないのに無理して好きでもないことをやる必要はない」と思い至り、以降はマイペースでの活動になっている。Fabtracks(http://fabtracks.com/)名義でのジェフ・ベックやヴェンチャーズ等の音源制作や、震災の被災地支援に端を発した『Guitar☆Man』(http://gm.fanmo.jp/)プロジェクトへの積極的参加など、自分の趣味を生かせる活動を無理のない範囲で行っている。もちろん浜田麻里のアルバムへの参加等は相変わらず行っているが、特に自分の趣味として仕事を離れ楽しくできるのがFabtracksだという。これはいわば、高校生時代にやっていたひとり多重録音遊びの延長のようなものだ。長い年月をかけて原点に戻ってきた、という感もある。

「あれを聞いて喜んでくれる人もけっこういるんだよね。楽器を練習してる人だけじゃなく、よくできたカヴァー・ヴァージョンとして聞いていて楽しい、と言ってくれる人もいて。労力を考えたらとても割に合わないけど、自分が得意で楽しんでやっているもので人が喜んでくれるなら、とても幸せなことだからね」

 今も20代のころと変わらず若々しい大槻も、年齢なりの心境の変化は感じ取っているようだ。

「この歳になるとさ、悲しいかな、そんなに大きな野望って持てないのよ、現実問題(笑)。
この世に生まれてきたからには、足跡は残したいと思う。でも自分の望まない形の足跡が残るのは、あまり幸せじゃない。
ヴィジョンをもって活動してきたわけでもないし、ある意味では流されてきた人生だからさ。自分の中では音楽的な筋は通ってるんだけど、なんとなくその場その場で流されて生きてきた分、活動として見た場合、あんま筋が通ってないところがあるからね。だから、オレの足跡ってこんな感じ、って納得できるようなものを残したい。このまま何もしないと浜田麻里の”Return to Myself”を作った人、ってところで終わっちゃうじゃん。もちろんそれはそれで立派な足跡だけど、それだけじゃない、実はこうだったんだな、と思わせるような足跡も残していきたい。そのためには何をするべきか、ということを最近は考えてるかな」

 僕にとって大槻と言えば、熱心な音楽リスナーであり、あの日の阿佐ヶ谷のアパートのように、自分の好きな曲を好きなように弾いていれば幸せなギターの虫である。もちろん作曲家や編曲家としての才にも恵まれここまで来たが、彼の本質はそこだけではない。

「アーティストというよりはいち音楽ファンなんだと思う。人の音楽を一切聴かない人もいるでしょ。そういう人とはむしろ逆でさ。人の音楽を聴いて育ったし、今でも人の音楽を聴くのが好きだしね」

 その感覚を失わず、いつまでも我々と同じように、好きな音楽についてならいくらでも語れる。それが大槻の魅力なのかもしれない。

 還暦記念ライヴは、気の置けないゆかりの音楽家たちを招き、大槻を形作ってきた古今の名曲、そしてオリジナル曲がプレイされる楽しいイベントになるようだ。それが終われば次は70歳イベントである。お互いジジイになるまでしがみついて、ロックの未来を見つめてやろうと思っている。

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